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この記事は約6分で読めます。
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千葉県市川市の江戸川沿いにある里見公園はバラと史跡と美しい景色が魅力的な公園です。里見公園へのアクセス(公共交通機関、車、自転車)や園内にある施設を写真を交えて紹介させていただきます。また、近くにあるおすすめスポットとして市川関所跡に関する情報も紹介させていただきます。
里見公園は千葉県市川市にあります。
公共交通機関の場合、最寄駅は以下の3つです。
松戸街道の国府台病院交差点から↓の道に入ります。
まっすぐ進んで行くと、里見公園入口が見えてきます。
松戸街道の国府台病院交差点から↓の道に入ります。
少し進むとコインパーキングがあります。
里見公園の無料駐車場はさらに進んでいくとありますが、公園から少し離れているので、有料パーキングでよければ、こちらでも良いと思います。
このパーキングを使う場合の注意点を1つ。
最徐行と書かれている道がとても狭いので、4番より向こう側に駐車しようとした際には、最徐行と書かれている道に頭から突っ込んで停めようとすると、かなり難易度高いです。
そのため、バックで最徐行と書かれた道に入って行って止めた方が良いです。
コインパーキングを越えて、さらに道なりに進み、急な坂を下っていくと、突き当たりになります。
こちらを右折します。
まっすぐ進むと左手に駐車場が見えてきます。
国道14号線から里見公園への行き方を説明します。
ヤマザキパン中央研究所と江戸川の間に↓のような歩行者と自転車専用の道路があるのでそちらに入ります。
真っ直ぐ進み、京成線の高架をくぐり、さらに進んでいきます。
江戸川越しの開けた景色も見られるのでおすすめです。
不安になりますが、江戸川沿いをずっと真っ直ぐ進んでいきます。
途中、バイク侵入防止の柵があるので、ゆっくり進みましょう。
こちらの交差点を右折します。
かなりの急勾配なので自転車を漕いで進むのは大変ですが、押したりしながら行きましょう。
そうすると左手に自転車置き場が見えてきます。
里見公園は房総の魅力500選に選ばれており、その石碑が置かれています。
しかし、房総で500選って多いですよね(笑)
国府台城は1478年に太田道灌が仮陣を築いたことに始まり、戦国時代には里見氏や小田原北条氏が度々勢力争いを繰り広げていたそうですが、江戸時代に入ると廃城されました。
里見公園のある市川市がバラの街であり、里見公園もバラの名所として有名です。
バラ園は↓の記事で紹介しているので併せてお読みください。
里見公園には子供たちが走り回ったりすることができる広場があります。
バドミントンやフリスビーなどもすることができます。
また、遊具も充実しているため、小さな子供も楽しめます。
土日しかやっていませんが、里見茶屋という売店があり、軽食(焼きそばなど)やおやつや遊び道具を購入することができるので、便利です。
紫烟草舎は元々、対岸の小岩にあり、北原白秋が作品の創作を続けた場所に対して、北原白秋が名づけたものです。
江戸川の改修工事の際に、解体されたままとなっていたところ、この地に復元したそうです。
お花見広場では火器使用が可能なのでバーベキューができます。
尚、道具などのレンタルが一切ないので、自分で持ち込んでやる形式です。
利用可能時間は、午前10時から午後4時です。
市川市が発表している注意事項は以下なので、必ず、守るようにして下さい。
里見公園の中ではなく、里見公園の外周沿いにあります。
羅漢の井は里見氏が国府台城に布陣した際に飲料水として使ったと伝えられているそうです。
こういう言い伝えがありますが、飲料水には適していないそうで、看板に飲料水には適しませんと書かれています。
里見公園の北側の方にはウォーキングコースが整備されており、森の中でハイキング気分を味わえます。
里見公園は高台となっており、東京方面を見渡すことができるため、東京スカイツリーと富士山の両方を一緒に撮影することができるスポットです。
私が訪れた日は生憎、曇り空でしたので富士山は全く見えませんでしたが、晴れていれば、ちょうど中央あたりに富士山を一緒に撮影することができます。
市川関所跡にある案内板には市川関所の役割が以下のように記載されています。
「江戸時代以前の江戸川は太日川と呼ばれていた。奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上馬屋(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌師の宗長が、その時の紀行文、「東路の都登」のなかで、市川に渡しがあったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。
やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡し場で旅人を調べる「定船場」が設けられた。古くから渡があり市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。
市川関所跡 案内板より
時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けれれていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され対岸の二村が一対で一つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では2~3艘の船を用意し、川場に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため「御関所附渡船之村方」とも呼ばれた。慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治2年(1869)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。
平成16年7月 市川市
シンプルに石碑と案内板と関所の門を再現しているものが置かれているだけですが、雰囲気は出ていると思います。
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